2015年9月23日水曜日

プリウスαに乗ってきた

今回の試乗はプリウスα。ただしディーラー行っての試乗ではなく、レンタカーを借りての試乗となった。
まあしょうがないよね。私のHT81Sじゃ快適な移動は4人までだから、6人移動となると借りるほうが手っ取り早くて。


最初は助手席で感覚を試す。
と言うと聞こえはいいが、運転席が指定席の日常を過ごしていると、助手席に乗るのに若干の違和感がある。車両感覚を普段通りの運転席側で取ってぶつかるかと身をすくめたり……(苦笑)

真っ先に感じたのは静けさ。
EV走行してるときだけではなくエンジンを併用するときでも、音ではそう気づけないほど静か。
耳を澄ませば加速に合わせて変動するインバータの高周波音はわかるし、エンジンが動くときの身震いや排気音もわずかながら実感できるものの、会話を邪魔できるほどの音は未改造ならばどうがんばっても出なさそう。思った以上の静けさだ。

これは確かに静か過ぎて歩行者に気づかれまい。納得。
住宅地じゃ走らせるとうるさいと言われ、歩行者からは静かすぎてわからないと言われ、自動車はまっこと日陰の存在である。


序盤の運転を友人に任せてしまった結果、峠道からクソ狭い漁村までを日ごろ運転していない友人に任せてしまう形となったことは反省ポイント。


昼食後にハンドル交代。
ざっくりシートポジションを合わせて前後左右の確認。
うん。助手席でも感じてたけど、エアロダイナミクスにこだわった結果の副産物か見切りはかなり悪い。特に前は見えないところがなだらかに伸びてて思ったよりも長い。
後方も見辛いけど普段はルームミラーに後付けのワイドなの使ってるからそこは我慢する。


では発進。っと?
「うおぅ、出足悪っ」
「だよねぇ。踏んでも速度が乗らない感じ。どうもスタートがまだるっこしい」
速度を乗せてしまえば加減速に不満はないものの、ゼロスタートが想像以上にトロい。後ろに誰かついてたら意識してワイドにアクセルを開けないとならないレベルだ。
しかし、このトロさに関しては使い方を知らない我々がエコモードのまま走り続けていたためのものだ。プリウスの名誉のために言っておくが、エコモードを解除した時の走りは少しトロいAT車レベルの加速を見せてくれた。
ちなみにパワーモードは試し損ねた。

エコモードでの走行に限って言うなら、後続車に迷惑をかけないよう燃費を稼ぐことを意識してアクセル開度を調整するのはそれなりに面白い。通算燃費の数字がわずかずつ上昇していく様子を見ながら走るのは、何と言うか、インテリジェントな楽しみ方だと思う。
だたし、おそらく燃費優先で走らずともプリウスの燃費はかなりいいはずだ。


ではハンドリングはどうかと言えば……どう言ったらいいんだろうか。特筆できることはないように感じた。
ハンドルを切る。曲がる。うん曲がったねぇ。車重があるなりに反応は鈍いけどちゃんと曲がるよ。
それで?
楽しいかと言われれば過不足なさ過ぎて平凡かなあと。
あの車重で軽快にひらひら曲がる車に仕上げられてもそれはそれで困り者だが、おそらくは普通のドライバーには必要十分なのだろう。
かといって足回りが格段にいいわけでもなく、落ち着いたハンドルマナーは車重に由来するものだろうという想像がつく。
ハンドルを握ってワクワクする感じはない。燃費稼ぎの楽しみは、むしろハンドルでの楽しさが足りない分よそに楽しみを見出そうとした苦肉の策だったのかも。


特筆すべきは燃費である。
通算燃費ではリッター20kmの数字を出していたのだが、いざ180kmほど走って給油したところ4リッター入らなかった。驚きのリッター60km!!!(笑)

満タン法計測の弊害の一つでもある「ギリギリいっぱいの量が給油者の技術で左右される」がモロに出た数字だと思うが、それにしてもけっこう走って500円くらいの燃料代で済んでしまったことは驚きだ。
レンタカーで長距離を走るときに、若干高くはなるがハイブリッドを選ぶのも選択肢としてありだと思った次第。


でははてさてこの車を所有したいかと言えば困るところだ。
困ったことに近年自家用車での走行距離が減り続け、年間5000km程度しか走ら(れ)ない自分に過度な燃費対策済みの車は無用だろうと。
何しろ燃費の他に楽しみがない。燃費がいいから長距離を、なんて考えも仕事での拘束が許してくれない。低燃費そのものが無駄な生活をしているのに、この車両代はかけていい範囲を超えていると思うわけだ。

普通なら何も考えずに走って低燃費という自動車は歓迎すべきなのだろう。
だが、プリウスには私の心をつつく甘美な要素が足りなく感じるのだ。

だったらHT81S乗り続けるよと。
HT81S以上に費用対効果高く琴線をかき鳴らす車は見つかってないのだから。



2015年9月18日金曜日

【映画感想】キングスマン

イギリスはロンドン、サヴィル・ロウに一軒の老舗の仕立て屋がある。名はキングスマン。
しかし、キングスマンの正体とは、とはどの国家にも属さず人知れず世界の危機に立ち向かう超国家的諜報機関のことである。
キングスマンとなるための第一条件は紳士であること。よってこれまでは上流階級のものばかりがキングスマンとなっていた。

キングスマンは世界中で作戦を行うが、作戦中の死亡においても、家族に伝えられるのは死んだという事実だけだ。
どの作戦でどのようにということも伝えられない。初めて平民からキングスマンになれる可能性のあった逸材が、仲間をかばって死んだときでもだ。

しかし守られた側は、命を救われたことを忘れなかった。


彼の息子エグジーが街のチンピラになったときにも救う手立ては残していた。

「マナーが人間を作るんだ」

友に守られた恩義に報いるため、ハリー・ハートはエグジーにキングスマンへの道を示す。


その陰で、IT長者のリッチモンド・ヴァレンタインは地球環境保護のために人類を減らす妄執にとらわれる。
激しい選民思想の下に彼が思い描く計画と手段は?

キングスマンは彼を止められるのか?

「人は生まれた家柄で紳士になるんじゃない。学んで、紳士になる」

エグジーは意志を継いでキングスマンとなれるのか?



えーと。まず注意事項。
R15なんで子供が見る危険性はないと思うけど、連れは選ぶべきだと思う。ジョークは黒いしネタがキワドすぎる。
だが、その辺を飲み込めるならば腹を抱えて笑えるネタがきっとあるはずだ。スウェーデンの女王wwwww


そもそも私は中期007シリーズやミッション・インポッシブルあたりのギミッキーなスパイアクションは大好物である。
特にスパイエージェント諸君が国家のしがらみにとらわれ、あのIMFですらCIAの下部組織となる昨今、ギミックを多数使い倒す超国家的諜報機関なんて愛すべき存在だろう?
しかも己を律するのは『紳士たれ』の心構えだ。
惚れろよてめぇら。
国家や組織のしがらみからもがいて抜け出して、それても世界のために活躍するスパイアクションはもちろん大好物だろう?


道具としてのギミックもそうだが、ストーリーとしてのギミックもいろいろと練り込まれている。
仕立て屋が諜報機関を運用する理由も無茶ながらそれなりに筋は通ってるし、ゆえにスーツがキングスマンの鎧であるという筋立ても面白い。

何よりこのスーツも含めたファッションセンスがバタくさくも決まっており、初期の007に通じるスーツがカッコよかった時代のスパイものの感覚が色濃く残っている。

仕込みナイフ入りオックスフォードシューズなんて古典的アイテムも披露するかと思えば、盗聴器は指先で服に張り付けられるほどの小型のものだし、位置追跡ジェルをワインに仕込んで追尾する等ガジェットの進歩もまた面白い。


そして、それらを使いこなすハリー・ハート役のコリン・ファースがこれ以上ないって程キマっている。
ムービーヒーローのスパイが伊達男だった時代のカッコよさと、やや古典的ながらキマりまくった紳士の装いが、イギリス演劇仕込みのやや過剰な演技によって重厚にまとめ上げられる。
アクション映画初出演とのことだが文句のつけようはない。

キングスマンに対抗するのがリッチモンド・ヴァレンタイン役のサミュエル=L・ジャクソン。軽薄ながら劇場型犯罪を踊るようにこなす様子を、過剰なまでの演技をもってやってのけた。

そこに割って入るエグジー役のタロン・エガートンは、本作が大作初出演のはずなのに、頼りなく環境に流され続けた若者から半人前のスパイになる過程を演じ切って両者に消されぬ存在感を示し続けた。


懐かしいスパイ映画を、現代風アクションで再現する。
007ですら失いかけている無理難題をキングスマンはやってのけた。

何よりかつてのスパイアクションに対する愛もあふれている。

大丈夫。アクション映画フリークも、スパイ映画マニアも、この映画をしっかり見ておけ。
ぐうの音くらいなら聞いてやる。私は出なかったがな。



2015年9月11日金曜日

五十年に一度の災害に備える

昨日の段階ですでに大事ではあったわけだが、一夜明けても鬼怒川決壊の状況はひどさを増していくように感じる。
相変わらずネットではデマ半分事実半分の流れが出来てしまっていて、外様の人間としてはせめてデマを拡散しないことを心がけるしかないのである。

個人的なことを言えば、父方の親戚が宮城におり、被害地域にかすっている家庭があるらしいので、そちらが被害に遭っていないかが心配なくらいだ。

閑話休題。

数十年に一度の災害というのは、それにぶち当たることも想像が出来なければ、そこからの復旧も想像を超える苦難であろうことくらいしか考えが及ばない。

自然は人の想像をたやすく飛び越える。これまでの経験に基づく対策が及ばないこともあろう。
それでも備えは必要だ。備えるべきである。



職場のそばを流れる川の護岸改修工事が行われたのは数年前のことだ。
「五十年に一度の水害に備える」というお題目のもとに、見慣れた護岸は飛来していた野鳥もとろも姿を消し、同時に行われた県道の拡幅工事で職場は移転を余儀なくされた。

当時は憤ったものである。人の手で自然を征服でもするつもりかと。

だが、これも備えであろう。
ならばなるべく無駄に終わるのが一番いいのだろうと思う。

野鳥は戻ってきたしな。

2015年9月5日土曜日

ロストテクノロジー

先日グーグル検索で飛び回っていて面白いものを見つけたので、ちょっとブログ記事にしてみる。
キーワードは『ロストテクノロジー』。


ロストテクノロジーとは「現代までのどこかで伝承の途切れた技術」のことで、ざっくり二系統に分類できる。


一つは技術の伝承が途絶えるもの。
技術を守ろうとして秘密主義を貫いた結果伝承が十分に行き届かず後継者が育たなくなるもの。権力などの後ろ盾が戦争や侵略で喪失したり必要な原料が取れなくなるなどの環境の変化によるものがある。

もう一つは新技術による駆逐。
旧来の技術がどれほど優れていようと、手軽さとコストに勝れば旧来の技術はじんわりと失われていく。気が付いたときには旧来の技術を知るものは伝承するに足りず、喪失を免れない。


双方に共通することとして、一度失われた技術の復活が不可能なことだろう。
現代科学の分析と当時の文献の解析で似たような技術を復活できても、それを当時のものと比較する手段がない。失われたものは大きいのである。


有名なところだとストラディバリウスのバイオリンが該当する。
技術の断絶もそうだが、値段が値段だけに科学分析にもおいそれとかけられない事が再現を難しくしている点は苦笑してしまう。


ロストテクノロジーはしばしばオーパーツとセットで語られる。
オーパーツとは『場違いな工芸品(Out-Of-Place-ARTifactS)』の略称で、当時の技術レベルで造れるかどうかが不明であったり、現代の眼で見ても製法や用途が不明であるものを指す単語である。
もちろんオーパーツの中には当時の技術に対する誤解によるものも含まれていて、謎が解明されているものも少なくない。


そんなオーパーツのひとつ『ダマスカス鋼』の製法は立派なロストテクノロジーである。

ダマスカス鋼と言えば波打った文様が特徴で、ホームセンターでもダマスカス鋼をうたった包丁があるくらい有名だ。

しかし、このダマスカス鋼の製法は19世紀に失われている。
現代の技術者が文献や材質を解析して似たような合金を作り上げたものの、近年その製法ではありえない物質が入っていることが発見されて不正確な再現であることが証明された。何だよカーボンナノチューブ入りって。

ちなみに前述のダマスカス包丁は、複数の金属を織り込んで叩き合わせそれっぽい文様が出るようにしただけのものだ。
ただし、金属のすり減り方が違うので切れ味が長持ちするメリットがあることは否定しない。
似たような効果は鍛造の刃物にもある。
ダマスカス鋼は文様が見えやすくなるような加工を施すのに対し、鍛造のものは水平に層にしてしまうから見えづらいだけだ。


ちなみに日本刀にもロストテクノロジーが存在する。
江戸時代以前に作られた刀(いわゆる古刀)の中には、刀鍛冶同士の交流も増え製鉄技術も上がったはずの江戸時代の刀(新刀)より優れたものが多いとされる。
職人の秘密主義が技術の断絶を招いてしまったのか。


さて。
実はここ70年のレベルでもロストテクノロジーは立派に存在する。

それが戦艦の主砲の砲身だ。

ミサイルや戦闘機の発達により主砲での打撃戦が無用となり、戦艦クラスの大口径主砲を製造する意味がなくなってしまった。
そして70年を経た現代では技術の伝承が途絶え、製造が不能になっている。

近年旋盤が廃棄されたが、大和の主砲を作った工作機械のほとんどは休止であるが現存している。
しかし現在では工作機械を動かせても主砲の製造は出来ない。あれほどの長大な砲身を精密砲撃が可能なレベルで工作するには、アナログな工作機械のクセやコツを知り尽くした熟練工が必須なのだ。

少し前までなら大和の主砲を作った技術者が現役であったはずだ。
ちょっと前なら聞き取りも出来たはずだ。
それでもこういう形で技術の断絶は起こる。
失われたのが戦争目的の技術であることは複雑な思いを抱くものの、そういう技術を失えるほど平和だと言うなによりの証明なのだろう。


最後に。
戦艦の技術がすべて無駄になったわけではない。思わぬところで平和に利用されているものだ。

大和の主砲の旋回部分を作った技術者は、のちにホテルニューオータニの展望レストランを手掛けている。
眉をひそめる向きもあるだろうが、私個人としては、とてもいいと思っている。