今回は敬称略で行きたいと思う。そしてかなりの長文。読みたい人向けに折りたたみ―。
アニメや漫画や小説などの創作物においては、物語の製作段階からある程度の嘘を混ぜ込むことが命題となる。
そしてその嘘に真実性を持たせることで物語には現実性が含まれていく。嘘をうまく消化できれば高校生が巨大ロボットに乗って宇宙戦争に巻き込まれても構わないし、逆ならそれこそ中学生の通学風景すら嘘っぽく見えたりする。
かように創作とは『上手に嘘をつく』技量が問われるものだ。
しかし、創作上ではその嘘に明確な基準を決めておく必要がある。つける嘘の調節だ。
例を挙げよう。
『過去の人間が未来で活動する』ためには、どんな嘘を許容すべきか?
リアル方面に振るなら、人助けによって負った脳の損傷を治療するために冷凍睡眠で技術の進歩を待った樹崎聖の『タキオン・フィンク』。
ギャグ方面に振るなら、使命を果たすために300年生き長らえた鯉之助を「気力」の一言で終わらせた『十兵衛ちゃん』。
両極端な例ではあるが、別段それで困ることはない。双方がきちんとリアリティのコントロールを行っているからだ。
『十兵衛ちゃん』はコメディ分多めのアニメであり、登場人物の鯉之助は柳生十兵衛本人から自分の生まれ変わりを探せと命じられたキャラである。しかも探すためのキーワードは「ぽちゃぽちゃのぷりんぷりんのぽんぽーん」と来た。んなもんギャグでもなけりゃ生き延びられるか!(笑)
一方『タキオン・フィンク』はと言うとガチのハードSF作品で、技術の進歩のために必要だった時間をしっかりと描き、得た技術によって更なる時間を『強制的に生かされる』悲しみも描写した。
かなり好きな作品なんだが入手困難なんだよなぁ……。
なぜこういう話に思い至ったかと言うと、togetterの記事に興味を惹かれたからだ。
それが「新セーラームーンはリアリティが無い」という暴論。あるいはSEEDとザブングルどっちがリアルか問題だ。
『セーラームーン』に関しては弁を控えたいと思う。新作も見ていないし、旧作はすでに忘却の彼方だし。ただ、旧作でギャグめいた展開にするとき、相応にキャラを崩していたのは今の目線で見るとすごく納得できる。
ここで注目したいのは『ガンダムSEED』と『ザブングル』のリアリティに関する考察だ。
ザブングルと言えば鉄と油と生活の匂いが漂い、人の手が存分に入ってそうなウォーカーマシンが魅力だと思う。『ボトムズ』にも通じるメカデザイナー大河原邦男の真骨頂だ。
じゃあそのロボットはリアルなのかと問われると首を横に振る。操作系統は丸ハンドルにアクセルとブレーキという無茶っぷりだし、ガソリンのレシプロエンジンが動力源のような描写もある。そもそも主人公が「たかがアニメで死ぬわけがない」と発言してしまう時点でリアルって何状態とも言えるだろう。
しかし、生活に密着させるだけで非現実的なウォーカーマシンは妙にリアルになる。ちょっとした面白さだ。
ガンダムSEEDは……う~ん……きちんと見てないんでリアルどうかの言及が出来ないんだよなぁ。
ただ一つ言えるのは、その後にどれだけリアルな描写を積み重ねようと、どんな理由を後付けしようと、工学部と言えど素人に近い学生が軍事機のOSにノータイムでアクセスできたどころか戦闘中に数十秒でOSの不具合を解消してしまった時点で現実味などあってたまるかと思う。
どういうことかと言われれば、そこに至るまでの積み重ねが見えないのだ。
技術が進歩すればハンドルとアクセルとブレーキ(と複数のボタン)でロボットが操縦できる日が来る可能性はゼロとは言えまい。そこにはきちんとした技術の積み重ねが見える。
冷凍睡眠という前提があるならば、医療技術の発展を待つのも時間の積み重ねだ。
ボトムズのキリコ・キュービィだって劇中で理不尽に生き延びた実績があったからこそ異能生存体という後付け設定に納得がいくのだ。
じゃあSEEDはどうよ、と。
あのシーンだけ切り抜くとギャグにしか見えないのよ。ボトムズで二話目くらいからいきなりキリコの心臓打ち抜くようなことをやってからどうシリアスに転べと。
リアリティのコントロールに初手から失敗してるとしか言えまい。
ぶっちゃけそげぶ以下だと思う。
あれは美琴との初回対戦がストーリー前に終わっていて、そげぶのトンデモ能力を美琴が知っている描写があるから世界観に溶け込めるのだ。言い換えるなら美琴を通すことでリアリティのコントロールを済ませていると。
別の例をあげよう。
『地上最強の男 竜』という漫画がある。バトル漫画ではあるのだが、理由なく最強を自負する竜という男が神と闘ったあげく地球を真っ二つに割って終わるという、あらすじだけだとギャグにしか見えない作品だ。
まあ本筋をざっと追うとギャグにすら見えないから心配せずともいい(ぉぃ
古い漫画なのでストーリーの整合性なんかは脇に置いとくとしても、いきなり「俺Tueeeee!」なのだからいろいろと、ねえ。
もちろんある程度有能な人間を最初から描写するのはいくらか大変だと思う。
『とある魔術の禁書目録』のそげぶこと上条当麻は前述の通り。
『スクライド』のカズマは強い強いと言われながらお山の大将であることを暴露し、敵側のエースである龍鳳の引き立て役として強さを描写するのに役立ってしまっている。
『バキ』では範馬刃牙の強さを描くために、最初の戦いは地下格闘場ではなく一般の空手大会で行っている。もちろんいきなり無双するのではなく、食事シーンと全身の傷で強さをにおわせながら。
実は『ガンダム00』あたりは微妙に失敗しかねない始まりだったのだが、MSそのものがスペシャルだったことといきなりガンダムに乗ったわけではないことで救われている。
ちなみにここで引き立て役にされたスペシャル(笑)なコーラサワーは、その後ガンダムとの複数回の戦闘どころかシリーズを通して生き延びるサバイバビリティを発揮している。まさか異能生存体!?(ぉぃ
さて。
別段このリアリティのコントロール問題、今に始まった話ではない。しかし昔はきちんとコントロールしていたという話を思い出したのだ。それも監督の手によって。
結構前に見たものなのだが今の意見に通じるものがあったのでリンクを貼らせていただきたい。
ハイランドビュー内の記事、飛び降りる宮崎駿vs飛び降りない押井守である。
エンターテイメントのために世界を変えるか、世界設定のためにエンターテイメントに少々我慢してもらうか。解決方法は監督が作るべきものだろうし、作った以上シナリオにも徹底させるべきだ。
その徹底こそが、冒頭の『上手に嘘をつく』技術なのだろうから。
とはいえ新作セーラームーンのギャグ空間非採用には若干ながらも同情したいところはある。
ギャグやるから少し作画とか頭身崩しますよってやると「作画崩壊!」ってつるし上げにかかる自称マニアが多すぎる気が。カッコよくするためなら『ゾイド』や『ジョジョ』のCGモデルの関節外しは何も言わないのにね。
最後に。
メタネタで作中でリアリティのコントロールに言及した作品もあったりする。
「9mmとはいえシリアスなドラマなら死んでたとこだぞ」みたいな会話が出たのはパトレイバーだったか士郎正宗作品のどれかだったか。自信ないんだけど。
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